私達妙心寺派の教え"おかげさま"についてのおはなし

先月のお話「先祖の恩」の復習をいたしましょう。
『父母恩重経』の中に「人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とす。」とあります。
 仏教では人の誕生を「宿業」根本欲(性欲・食欲・睡眠欲)の表れと受け止めています。この根本欲は動物も一緒です。だからこの欲に振り回される人間を「犬畜生にも劣る」と表現されるのです。

人間の宿業を父母という善き縁によって、私達は人間としての「いのち」を授かるのです。授かった「いのち」も食べ物がなければ、今まで生きて来れませんでした。
私達が食べる肉や魚、野菜にいたるまで全て生き物であります。
人間と同じ「いのち」を持っています。

もし自分の「いのち」は自分のものであれば、牛の「いのち」は牛のもの、魚の「いのち」は魚のものです。だから人間は牛や魚を食べていけないことになります。
では人間の「いのち」と他の「いのち」とは違うのでしょうか。

1997年神戸で起きた連続児童殺傷事件で逮捕された当時14才の酒鬼薔薇聖斗は、医療少年刑務所で「何故、犬や猫の首を切った時は何も言われなかったのに、人間の首を切るといけないの?皆同じ生き物でしょ。

どこが悪いの。毎日食べているお魚やお肉の首を切っている職業の人はどうなるの?」と質問をしてきたそうです。 さあ、皆さんはどの様に答えられますか?

昔は食事の前に手を合わせ「箸取らば、雨・土・御世の御恵み、先祖や親の恩を味わえ」いただきます。と言って食べたそうです。皆様のご家庭では如何でしょうか。
「いただきます」とは、何をいただくのでしょう。

生き物は皆、何かを食べなくては生きていけません。勿論人間も又、殺生せずしては生きていけません。
今、私の目の前にある食べ物は、全て「いのち」のあった生き物です。私が生きて行く為に誠に申し訳ないが多くの生き物の「いのち」をこれからいただきます。と言うことでしょう。

動物の世界は弱肉強食です。確かに満腹になればそれ以上食を欲しませんが、人間はグルメと称して必要以上に求め、生活習慣病になっています。哀れと言うも愚かなりでしょう。
我々人間は、生きとし生けるもの一切衆生の「いのち」をいただき、今生かされていることを自覚し、感謝することが出来ます。

多くの動物や植物の「いのち」を奪ってしか生きられない人間はいただいた多くの「いのち」を生かす事も出来ます。
夫婦でも先輩後輩でも、この人に着いて行こう。この人を幸せにしようと思う時は、自分の私利私欲を捨てて、自分の人生をかけるのです。つまり自分の「いのち」をかけるのです。

私の「いのち」は、私のものではありません。私の「いのち」を支えている多くの生き物のものです。
だから私達は、「いのち」を捧げてくれた多くの生き物の「いのち」を無駄死にさせてはいけないのです。
常に衆生(多くの生き物)の恩を感じ、懺悔と感謝の心で生きることが、人間本来の姿だと思います。

つづく

話 : 大興寺住職 一色宏襄